トラウマは消せるのか~かわいそうな子ども時代の記憶
いじめられっこの悲しい記憶
小学校3年生くらいの頃、軽くいじめにあった。
「お前が触ったものは腐る!」と言われてからかわれたり、蹴られたり。
授業の前に教科書を叩き落されて、「なんで教科書開いてないんだ!」と先生に怒られるように仕向けられたり。
だけど、不思議なことに、学校の中で私をいじめてきたガキ大将的存在の男の子も、学校の外では、優しかった。
彼も、学校という閉鎖された空間の中で、ストレスの捌け口なようなものを、必要としていたのかもしれない。
そんなこんなで、私はいじめっこを恨んでいないし、いじめがトラウマになってもいない。(なんかこれ、DVした後、優しくなる夫を憎めない妻のようだな笑)
だけど、いじめっこに対してではないが、「自分で環境を変えられない」ということに、絶望を覚えたことは、記憶している。
転校したい、引っ越ししたい、と思っても、自分の力では、できない。
子どもは、大人の力を借りないと、生き方を選べない。
子どもとは、なんて不自由なんだろう。
ハッキリとではないが、小学校3年生あたりで、なんとなく思っていたのだと思う。
親に庇護され、責任を持たされないということの代償。
子どもにとって、未来の選択肢は「提示されるもの」であって、自分で「生み出せる」ものではないのだ、と。
思い出すと、それはとてもとても、悲しく感じた。
だから私は、大人になってからも、「子どもの教育論」には全く興味が持てなかった。
私の中の子どもが叫ぶのだ。
やめてよ。
大人に選択肢を与えられたくない。
大人の夢を託されたくなんてない。
大人に未来を決められたくない。
ただ、聞いてほしかった。
「あなたは、どうしたいの?」
って。
どうせ未来は創れない
そんな思い込みを持った私は、「未来を想像する」ことが、苦手な大人になった。
「今を楽しむ」ことはできる。
だけどそれは、「今を楽しみたいから」ではなくて
「未来は、どうせ、創れないから」
という価値観から生まれたものだったかもしれない。
だけれど、気が付いた。
あれ、私はどうして、当たり前に、
「子どものころできなかったことが、大人になってもできない」
って、思っているんだ??
私は、大人になった。
引っ越しも好きにできる。
住みたい場所も選べる。
何を学ぶか、誰といるか。
1年後、何をしたいか。何をするのか。
未来を選べる。
お金も稼げる。
未来を、自分の決断で、生み出せる。
それはなんと、幸福だろうか。
私は本当に「可哀そうな子ども」だったのか?
と、同時に、子ども時代の「未来を選べない可哀そうな自分」は、なぜあったのか、考えた。
子どものときは、「未来を創れなかった」んじゃない。
「未来を創る方法」を探していた。
どういう力があれば、自分で未来を創れる大人になれるのか。
未来を自分で創れる大人になったときに、どんな基準を持って、決定をするのか。
与えられた選択肢の中で、イエス、ノーを決めていくことは、自分の「判断基準」を見極めるのに、大きく役に立っていた。
思えば私は昔から、好き嫌いがハッキリしていた。
「ノーと言える子ども」
…では全くなかったが(笑)
心の中では「やりたくないわー」がハッキリしていた。
「はいわかりました!」(やりませんけど)
という子どもだった。
(付き合いが長くなると、「返事だけはいい」とばれる笑)
自分の好き嫌いを見極めるために、選択肢を与えてもらっていた。
だから、「あなたは、どうしたいの?」とは、聞かれなかった。
ゼロの状態で「何がしたい?」と言われても、「何ができるの?」と聞くしかないものね(笑)
ここで、記憶の中の
「未来を選べなかった可哀そうな子ども」の自分像は、
いつの間にか
「いつか自分で未来を生み出す方法を見極めてやるぞ」
という、逞しい自分像に入れ替わった。
実際、子供のころ、どうったのかなんて、もはや分からない。
人間の記憶なんて、そんなもんである。
だから、私たちはいつも自由だ。
過去の意味づけは、「今、この瞬間」に変化させられる。
だから、今日の本題。
「トラウマは消せるのか」について。
消す、という表現は正しくないかもしれない。
記憶は残る。
ただ、記憶についての意味づけや、そこに付随する感情は、後からいくらでも塗り替えることができる。
実際、「トラウマ」の記憶自体も、脳の捏造できることが判明しているし。
(実際は見ていない殺害現場の記憶を捏造してしまい、証言台に立ってしてしまった事例がある)
『自分の記憶も、価値観も、ころっと変わることがある』くらいに思っていて、いいんじゃないかな。
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